二宮金次郎について 1
2003/08/17
我が家からそう遠くない所に、創立明治41年の小学校がある。一部残された木造建の校舎も修復され、当時の面影を偲ばせている。大きな桜の木に阻まれて、あまり人目に付かないようだが、小学校の校門の脇に二宮金次郎の銅像が佇んでいる。
二宮金次郎といえば、明治36年の国定教科書から昭和20年まで、修身の教科書に出てくる最も重要な人物であり、日本中の小学校の校庭に彼の銅像がたてれた。少年金次郎が大きな薪のたばを背負いながら読書している姿である。
明治23年、明治政府は開国にあたって日本国民の精神的な統一と富国強兵を目指して修身の本、教育勅語を作った。忠孝愛国を臣民の道徳として強調、天皇に対する忠義、滅私奉公、報国を徳目としていた。
明治・大正・昭和に渡り、時の為政者は道徳教育の象徴として、二宮金次郎を政治的に利用した。昭和20年8月15日敗戦当時、日本中のあちこちに有名な武士や軍人の銅像が立っていたが軍国主義の象徴だとして、GHQによってそれらは全て取り払われた。二宮金次郎は武士でも軍人でもなかったが、取り払われ教科書からも消えた。
我が家の近くの小学校に戦前からの二宮金次郎像がなぜ有るのか定かではないが、戦後になって設置されたものもある。神奈川県小田原市立桜井小学校は、平成5年, 創立100周年記念に二宮金次郎像を設置した。同校の校歌の中にも尊徳の名前が出てくる。小田原は二宮尊徳生誕の地だからだろう。
二宮金次郎の生涯と思想を知る者は、修身の教科書に載っている尊徳がいかに歪められ、間違っているかに気が付くであろう。
二宮金次郎について 2
修身の教科書では尊徳の真の生き方は殆ど書かれないで、上の者の命令ならばどんなことでも従順に従う人物として描かれている。物語の内容も桜町領をはじめとする各地での社会的仕事は全く省かれ、少年時代の苦労話だけが大きく取り上げられている。また、尊徳を支持し協力した多くの農民や弟子達の存在も全く省みられていない。
当時の小学校唱歌: 芝刈り縄ない草鞋をつくり
親の手を助け弟を世話し
兄弟仲良く孝行つくす
手本は二宮金次郎
人の休んでいる時でも縄をない、草鞋をつくって倦むところを知らなかった。尊徳像は薪の束を背負いながら書を読んでいる。その本を読んだということを除けば、あとは誰にでもあった話である。封建社会の農民はそれほどにしなければ四公六民や五公五民の貢租は収められなかった。時の政府は二宮尊徳像にいったい何の書を持たせたのであろうか。
二宮金次郎は天明7年(1787年)相模国足柄郡ヵ山村に裕福な地主の子として生まれた。幼少にして家が破産、少年時代の金次郎は、日夜働いてたゆむことのない生活の中で暇をみては「論語」や「大学」を読んだという。
赤貧洗うが如きなかから足柄平原有数の地主になりあがるまでの彼の歴史は, 封建社会の盲点をついた生き方だった。封建社会において、唯一租税のかからぬ土地は開作田であった。酒匂川の氾濫のためにそうした開作田の耕作者となった。尊徳の偉大さは彼の個人的な経験を社会化したことである。彼はこの経験をもって、桜町・下館・烏山・相馬・日光、その他かずかずの農地を救っていった。実際に農民は豊かになった。その場合、彼は封建的な搾取というものを徹底的に制限した。分度の設定である。
何万の百姓が竹槍を持って立ち上がって要求しても、かちとるかどうか分らないような年貢の軽減を一人でやってのけたのである。彼は政治を語らないで最も効果的な方法で政治に挑んでいた。
二宮金次郎について 3
二宮金次郎尊徳は封建社会の重圧にあえぐ農民救済のために尽くした人物として描かれるべきである。封建社会の搾取にぶちのめされた農民は、何万何十万といた。彼は人民の苦しみを救う道を最も現実的なものから考えていった。
人間の社会的経済的なあり方として「謹・倹・譲」という道徳的なあり方を考えた: 謹は勤勉に働くこと。あくまで働くことによって人間は向上することができる。倹は倹約。それはケチンボとは違う。変に備えるためにすることである。人の一生には天災、飢饉がいつ来るかも知れない。そのときに蓄えがなかったら、人間が人間として、最後まで立派であることができない。譲は推譲。個人の生活から社会の生活への展開をなす軸が、譲るということである。しかし、個人の生活を保つためには、そこに一定の枠というものがなければならない。その枠が「分度」である。
尊徳は、謹・倹・譲という道徳的な経済政策を農民にだけ強要した訳ではない。小田原藩の家老であった服部家の再建に当っても、主人はじめ、使用人達にこの道徳律を誓わせた。
尊徳の学問や思想は常に彼の貴重な体験から生み出された。例えば、彼の「天道と人道」の考え方である。それは徳川時代の通念であった朱子学の自然観を覆すものであった。
「人道は、自然の法則が田畑を荒らしていくことに対して、これを防衛しなければならない。あくまでも田畑を作っていくのである。だからその時には自然に対する人間のたたかいともなる。」(万物発言集)
「人の賤しむ処の蓄道は天理自然の道なり、尊む処の人道は、天理に従ふといへども又、作為の道にして自然にあらず」(夜話)
彼は人道などに絶対的なものをみていない。人道がそのような絶対性を失うとすれば封建制度が最高のものと決めている君臣の関係や四民の道徳はそれを強く主張できなくなる。彼のこの考え方には明らかに近代というものが成長してきている。
税金を私物化したり、無駄遣いして借金ばかり増やしている昨今の官僚や政治家は、日本中の小学校の教科書に載せられた二宮金次郎像の誤りを認識して、 二宮金次郎尊徳の偉業から学んだら如何なものか。
参考文献
『二宮尊徳』筑波常治 国土社
『二宮尊徳』奈良元達也 岩波新書
『二宮翁夜話』福住正兄 岩波文庫