「路傍の石」について
2007/09/10
−映像で訴えるフューマニズム−
執筆の背景
作者、山本有三が「路傍の石」を書いたのは、1936年、有三、49歳の時であった。1938年、映画化された。その前年、1937年7月には日中戦争が起こり、1938年には、内務省警保局が「児童読物に関する指示要綱」を発表し、民主主義を正しいものとして内容にしているいっさいの読物に圧力をかけ禁止した。
「路傍の石」が発表されている時代、即ち、日中戦争の直前から太平洋戦争の真っ只中では、個人の尊厳は否定され、国のため、戦争のためという理由で生命が軽く扱われた。「路傍の石」は、人間に対する差別を批判し、人間の尊さを守り、可能性を伸ばし、個性を生かして力強く生きていくことを理想とする内容の小説であった。そのため、著者は1940年6月、筆を折って、「路傍の石」は未完成のまま終止符が打たれた。
この間の事情を山本有三は「ペンを折る」で次のように述べている。
「日一日と統制の強化されつつある今日の時代では、それをそのまま書こうとすると、特に―これらの部分においては、不幸な事態をひき起こしやすいのです。その不幸を避けようとして、いわゆる時代の線にそうように書こうとすれば、いきおい、私は途中から筆を曲げなければなりません。...時代の認識に調子を合わせようとすれば、ゆがんだ形のものを書かねばなりません。...世の中がおちついて、前の構想のままでも自由に書ける時代がきたら、私はふたたびあのあとを続けましょう。けれども、そういう時代がこなければ、あの作品は路傍に投げ捨てるよりほかありません」(昭和15年6月20日)。
敗戦から2年後、1947年3月20日発行、鱒書房版「路傍の石−新編」の「あとがき」で山本有三は、「それから、7年の歳月が流れている。もういまわしい戦争も終った。軍国主義の政府もなくなった。今度こそ自由に書けるはずであるが、しかし私は、どうもあとを書きつぐ気になれないのである。...とにかく、前の構想のままでは、私には、今日もなお書けないのである。残念ではあるが、やむをえない。しょせん『路傍の石』はほうりだされる運命にあるものと見える」と記している。
結局、「路傍の石」は未刊のまま各社から文庫本として出版され、映画化され、多くの読者に勇気と希望とを与えた。さながらシューベルトの「未完成交響曲」の如く今もなお、心ある読者を魅了して止まない。
家城巳代治監督「路傍の石」東映
こうした時代的背景で書かれた「路傍の石」は、1964年6月、家城巳代治監督により、4度目の映画化が実現した。映像として「路傍の石」を最も感動的に描くために、筋書きや登場人物が原作とやや異なる部分もあるが、この映画を見て心打たれない視聴者はいないであろう。
有名な「鉄橋事件」の場面も主人公、吾一の東京での生活も割愛され、吾一に学費を出そうとした安吉も、2組の級長、道夫も登場しない。しかし、この映画の中で、逆境にめげず力強く生きる吾一少年は輝いていた。子供らしい純真さを失わず、真っすぐに生きていく吾一の中で育まれるヒューマニズムがこの映画の主題のように思う。
場面 1 中学進学
映画は明治36年春、田舎の小学校の校庭の場面で始まる。吾一達同じクラスの仲間5〜6人が校門の前で、2組に決闘を申し込もうと相談している。 吾一は、「おっかさんの手伝いをしなければならないし、それに、中学の勉強もあるから」と言って真っすぐに家に帰った。
吾一の家は路地裏の2部屋だけの貧しい佇まいであった。親子3人暮らしだが、父の庄吾は定職を持たず、金をせびる時だけ、家に帰って来た。その日、学校から帰ると父が昼間から酒を飲んで、金を用立てるように、おれん(吾一の母)を困らせていた。吾一は父の荒々しい声を聞くと、怖くて家の中へ入れず、玄関でかたくなったまま立っていたが、すぐに母に見つけられ、「おっとさんが帰っていらしやったのよ。ご挨拶なさい」と言われ、おずおずと父の前で正座し、「おかえりなさい」とぽつりと言った。
父は愛川家が武士で13代続いた旧家であることを鼻にかけ、働かないでぶらぶらしているのんだくれであった。母が針仕事で細々と家計を支えていた。今日も父は家財道具を売って金を作れとか、伊勢屋へ行って金を借りてこいとか、ごねていた。吾一が中学へ進学することにも反対で、おれんを殴りつけ、吾一の貯金箱を奪い、さっさと東京へ行ってしまった。
吾一はくやしいのと情けないのとで、柱に持たれ声を出して泣いた。母はやさしく吾一を宥め、諭した。吾一は涙を拭いながら、「おっかさん、おれ、新聞配達だって、納豆売りだって何だってするよ。だから、中学へやっておくれよ!」と母に懇願したが、母は、「そんなことをしたら、お父さんに叱られます」と言って、聞き入れてくれなかった。吾一は唇を噛み締め、一目散に家を飛び出し、河原へ行って小石を拾い、自分の鬱憤を水の中に投げつけていた。
そんなある日、伊勢屋の番頭の忠助がおれんに、「吾一が卒業したら、伊勢屋に奉公によこさないか」と言って来た。おれんは伊勢屋には庄吾の借金も返さなければならないし、仕立てものも出してくれているので、逆らえなかった。それに、なまじ学問をさせるより、吾一は堅気な商人になったほうが良いと考えるようになった。
勉強が良く出来、一番で高等小学校を卒業したものの、前途に希望を失った吾一は、卒業式の帰り道いつもの河原にやってきて呆然と立っていると、突然、クラス担任の次野先生に呼び止められた。「中学へ行けないんです」と一言発した途端、胸から悲しみが突き上げてきて、激しく泣きじゃくってしまった。しばらくして、次野先生は、「愛川、おまえの名前は何というのだ。ここに書いてみろ」と静かに話し掛けた。吾一は言われるままに、先生の拾ってきた石で「吾一」と書いた。
「吾一か、実に良い名前だ。吾一、おまえは自分の名前の意味を考えたことがあるか。吾一というのは、“我は一人なり”世界に何億の人間がいるかも知れないが、愛川吾一というものは、世界中にたった一人しかいないのだ。だが、一人ぼっちとは違う。仲間はたくさんいる。先生もおまえの仲間だ。千万人行けども我行かぬ。たった一人しかいない自分をたった一度しかない一生をほんとうに生かさなかったら、人間生まれてきた甲斐がないじゃないか。福沢諭吉は言った、『学問は米を搗きながらでも出来る』って。これからのおまえの人生はおまえのこの二つの手で切り開いて行かねばならい。分ったか」。
次野先生の言葉は胸にずしんとくるものがあり、吾一はこっくりとうなずいて川の水で顔を洗うと、「ようし、やるぞ!」と勇気が沸いて来た。
場面 2 伊勢屋へ奉公
こうして吾一は伊勢屋に奉公に入った。吾一という名前は奉公人に相応しくないと伊勢屋の主人は“五助”がよかろうと忠助に提案し、吾一は“五助”と書かれた前掛けを着け、風呂場の掃除、風呂のたきつけ、ランプのホヤ磨き、廊下の雑巾がけ、それが済むと番頭の後ろに控えて、注文に応じて品物を蔵に取りに行くことになっていた。吾一のような奉公人、10名の小僧は、広い土間に川の字になって煎餅フトンに寝かされた。
奉公をしていると、食べることのほかに何一つ楽しみがなかった。その唯一の楽しみのご飯も「早や飯も芸のうち」といって、掻きこむように競って食事を済ませねばならなかった。ご飯の前後には、主人のへやの前の板の間に手をついて「いただきます」「ごちそうさま」というのがしきたりだった。
仕事のことで殴られたり、蹴られたりは日常茶飯事で、どんな辛いことでも、吾一は大抵のことは耐えられたが、あの劣等性だった伊勢屋の息子、秋太郎がぴかぴかの金ボタンの制服を身につけ中学の制帽をかぶって、「おい、五助、おれの靴を出してくれ」と命令し、「へ―」と答えて秋太郎の足元に靴を揃えてやり、「いってらっしゃいませ」と言わねばならない時の屈辱感には耐えられなかった。そればかりか、「坊ちゃんがお呼びです」と先輩の小僧にいわれ、秋太郎の部屋の前で正座していると、「やあ、五助、前掛けがよく似合うな、柔道でしごいてやるから来い」といきなり胸倉をつかまれ、何度も投げ飛ばされ、吾一も必死に抵抗していると着物が破れてしまった。「強情なやつだ。今日はこのくらいで勘弁しやら―」と秋太郎は、はあはあ言いながら吾一を突き放した。
その日の昼下がり、吾一は伊勢屋を飛び出し、「もう、店に帰るのは嫌だ!」と、母の膝でおもいきり泣いた。事情を知らない母は、「人様の家に行ったら、そうりゃ辛いことだってありますよ。でも、そこを辛抱するのが奉公というものでしょう。おっかさんは吾一ちゃんが立派なあきんどになることを望んでいるんですよ」「あらあら、着物の袖が破れて...ちょっと待ってね、縫ってあげるから」。母は黙って吾一の着物を繕っていた。吾一は涙にぬれた目を上げ、母の方を見た。“母はなんと優しく穏やかな顔をしているのであろう。父がヤクザなため、こんなに苦労しなければならないのに、吾一の前で一度も父の悪口や、愚痴を言ったことがない。いつも穏やかに吾一を慰め黙々と働いている”。
吾一は、「おっかさん、心配かけてすみません」と言って再び伊勢屋に戻った。伊勢屋では、これまで以上にせっせっと働いたが、ここには、人間らしい心をもった者は一人もいなかった。吾一のただ一つの救いは、秋太郎が勉強嫌いで、吾一に中学の宿題を持ち込むことだった。吾一が風呂の焚き付けをしている時も、廊下を拭いている時も、「中学ではこんな難しいことをやっているんだよ。お前に分るかい」という調子で、吾一の自尊心をくすぐった。お陰で、吾一は働きながら中学の勉強ができた。
薮入りの日に暇が出て、吾一は新しい着物で家に帰った。母は朝からそわそわと吾一の帰るのを待っていた。吾一は明るい表情で、「ごめん下さい」と言って中に入り、伊勢屋から初めて頂いたわずかな小づかいを母に差し出した。母は、吾一の働いたお金など受け取ったらバチが当るとばかりに拒絶していたが、「私がはじめて頂いたお金なので、おっかさんにあげたいのです」というと、涙を流しながら、「ありがとう」と言って受け取ってくれた。
楽しいお盆の休日はあっという間に過ぎ、また伊勢屋での凄まじい労働の日々が続いた。そんなある日、吾一と仲良しの京造がけたたましく伊勢屋に駆け込んできた。「吾一ちゃん、大変だよ! 作ちゃんが病気で奉公先から家に帰されたんだよ。もう口もきけないないほど悪いんだ!吾一ちゃん、すぐ来てよ!」吾一は、「うん、すぐ行くよ!」と答え、大番頭に少しだけ時間をくれるように頼んだが、大番頭は、「あきんどは商売が一番、そんなわがままは許しません」とつっぱね、くどくどと、吾一の父の悪口や作次の家の悪口を並べたてた。吾一は我慢できず、「作ちゃんの家の人はみないい人です。作ちゃんは両親に心配を掛けまいと...大番頭さんになんか分りゃしません」と初めて口答えをした。大番頭はかっとなり、「お前はこのわしに口答えする気か!」と怒鳴った。そばにいた番頭が、「あやまれ!」と吾一の頭を小突いたが、吾一は素早く逃げ出した。作次の家の前に立ったとき、裸足のままであった。
場面 3 東京へ
以来、吾一は伊勢屋へ戻ることはなかった。労働酷使と非人間的な人達に囲まれての伊勢屋の生活は吾一に何の意味も齎さなかった。次野先生は、「人に頭を下げても、腹の中まで卑屈になるな」と言ったが、14歳の吾一には、その要領が掴めず、腹の中まで卑屈になりそうだった。母は、“吾一が逃げ帰ってくるのには相当のことがあったにちがいない”と思い、伊勢屋には平身低頭で吾一の暇請いをし、東京へ出してやる決心をした。吾一は東京へ赴任した次野先生を頼りに単身、「やります。しっかりやります」と母に約束をし、東京へと向かった。
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私の主観を交えての長い筋書きになってしまったが、映画はここで終わりになっていて、東京での吾一の生活をあれこれ推測させる味わいを残している。明治36年(1903年)と言えば、今から100年以上も昔の話である。当時は婦人や子供の人権概念などなかった時代背景を考えないと、吾一の奉公や吾一の母、おれんの生き方、考え方は理解できないであろう。吾一の家は、定職を持たず、酒ばかり飲んでいるどうしようもない父の庄吾を中心に動いていた。おれんは吾一を可愛がってくれても、いつも庄吾を立てる従順な妻であった。おれんは当時の家父長制の中で、持ち前の優しさと気丈さで吾一に愛情を注いだ母であった。
確かに、吾一の時代は我々には想像もつかないほど、日本は貧乏で不自由であった。吾一の母も吾一も、いや、80%の貧しい庶民が時代の犠牲者だったに違いない。しかし、「路傍の石」が我々に語りかけてくれるものは、単なるそうした事実以上に、次野先生の言葉が象徴しているように、人間のあり方、ヒューマニズムとは何かである。残念ながら、自由と繁栄の今日にして、次野先生のような教師との出会いは皆無といってもよいだろう。
現代の飽食と唯々諾々とした環境に甘えて暮らしている我々、権利意識ばかりが先行して、親を親とも思わなくなった子供達の風潮、子供の前で父親を罵る母親、世の中が逆転している今日の我々に、「路傍の石」は、襟を正させてくれる作品であることに間違いない。
参考文献
「路傍の石」新潮社 2005年7月 第35刷
「路傍の石」金の星社 1994年12月 第25刷
「路傍の石」新学社文庫 1982年6月 重版
「路傍の石−新編」鱒書房 1947年3月
「路傍の石」家城巳代治監督 東映東京作品 1964年6月公開